2009年度第一学期                              入江幸男

学部:哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」

大学院:現代哲学講義「観念論を徹底するとどうなるか」


 

          第一回講義(2009年4月10日)

 


§1 観念論とはなにか?

 

1 ‘Idealism’ という語の用法

(‘Ideismus’ の項目 ”Historische Worterbuch der Phillosophie”参照)

 

Idealistという語は、18世紀以前には登場しない。

最初には、この語は、プラトンに関係して用いられた。

(1)おそらく最初の用法は、ライブニッツによるものである。

彼は、エピクロスとプラトンを、MaterialistIdealistとして対立させた。

1702年。)

プラトンの観念論は、内的経験によって支えられたテーゼ「まるで物体が全く存在しないかのように全てのことが魂のなかで起こる」を代表している。これに対して、Materialismusは、「まるで魂が存在しないかのように、全てことが物体の中におこる」というテーゼである。ライブニッツは、このディレンマを予定調和の説によって解決する。ライブニッツは、観念論の代表者として、プラトン以外には、デカルト主義者たちを挙げている。Wolfとその学派による説明は、更に簡単であり、「観念論者は、世界と物体の実在的存在を否定し、それらに我々の心の中での観念的な存在だけをみとめる。」

(2)Th. Reid が、ロック、バークリ、ヒュームの理論に対して、最初に、「観念的体系」という共通概念を使用した。

 

2、Idealismの歴史

(1)デカルトの二元論

デカルトが精神と物体を異なる実体としたことが出発点である。精神は、物体とは独立に存在するものと見なされた。

疑えるすべての事柄を疑ったあとに、残された確実な事柄が、「私が考えている」ということであった。私が感覚をもつこと、私が知覚を持つこと、私が欲すること、私が思考することは、確実なことである。デカルトは、神の存在証明をへて、神の誠実性によって、明晰判明な知の確実性を主張することになり、数学や論理学、外的対象の存在をみとめることになる。しかし、デカルトのその後の議論を疑うときには、神の存在や、数学や論理学の確実性や、外的対象の存在を疑うことになる。

これらの中で、外的対象について、その存在を疑う立場、あるいはその存在を否定する立場を観念論といい、その存在を認める立場を実在論と呼ぶことが、多い。

 デカルトの方法的懐疑によって確実とされたことは、「私が考えている、故に私が存在する」ということであった。ここで、「私」が、他者とは異なる実体であり、他者とは独立に存在することが論証されている。他者の存在の証明もまた、デカルトの場合には、神の存在証明を解することになるので、それを疑うものは、他者の存在証明も疑うことができる。その場合に、精神だけが存在するという観念論は、私の精神だけが存在するといういわゆる「独我論」になる。

 

(2)ライブニッツとスピノザは、精神と物体を二種類の実体としなかったので、観念論とは無縁である。

 

(3)ロックの実在論

ロックの認識論は、カントに大きな影響を与えている。ロックは、物自体が存在し、それが感官を触発して、単純観念が生じると考えていた。彼は、その単純観念を、物自体にも属する第一性質と、物自体には属さない第二性質に区別した。ロックは、物体が我々に見えるとおりに存在するという素朴実在論ではないが、物体は実在しており、我々はその性質について知りうるという実在論である。

 

(4)バークリの観念論

 バークリはロックによる第一性質と第二性質の区別を批判する。その結果、全ての性質は主観的なものとなる。そうすると物自体については知りえないことになり、また現象の説明には不必要であるとされ、その存在が否定されることになる。”esse is percipi” (存在するとは知覚されることである)

バークリが西洋近代における最初の観念論者である。

(プラトンが観念論者であるといえるかどうか、西洋古代中世や東洋にも観念論があったといえるかどうか、これらの問題はここでは立ち入らない)。

ただし、バークリは、主観については、それが存在することは、それが知覚されることである、とは考えておらず、それが実体として存在することを認めていた。したがって、バークリは複数の主観を認めていたが、或る物体を誰ひとり知覚していないときにも、神がそれを知覚していると考えていた。

 

(5)ヒュームの懐疑論

 ヒュームは、実体を知覚の束として説明し、心についても、それを知覚の束として説明した。つまりヒュームは、バークリの観念論を徹底させたといえるだろう。

 

(6)カントの超越論的観念論

カントは、観念論を自ら名乗った最初の哲学者である。しかし、彼は、バークリの観念論とデカルトの観念論を批判する。

 

●バークリの観念論への批判

空間と時間が直観の形式であることの論証によって、カントは、バークリの観念論の批判は終わっていると考えていた。これはどういうことだろうか。

Time therefore being nothing, abstracted from the sucession of ideas in our minds, it follows that the duration of any finite spirit must be estimated by the number of ideas or actions succeeding each other in that same spirit or mind.(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge

§98)

 

we shall find we cannot even frame an idea of pure Space exclusive of all body.”(A Treatise Concerning the Principles of Human Knowledge §116

 

 

Der Satz aller achten Idealisten von der Eleatischen Schule an bis zum Bischof Berkeley ist in dieser Formel enthalten: ≫Alle Erkenntnis durch Sinne und Erfahrung ist nichts als lauter Schein, und nur in den Ideen des reinen Verstandes und Vernunft ist Wahrheit.≪

Der Grundsatz, der meinen Idealism durchgangig regiert und bestimmt, ist dagegen: ≫Alles Erkenntnis von Dingen aus blosem reinen Verstande oder reiner Vernunft ist nichts als lauter Schein, und nur in der Erfahrung ist Wahrheit.≪ “ (Prolegomena IV 374

 

Raum und Zeit sammt allem, was sie in sich enthalten, sind nicht die Dinge oder deren Eigenschaften an sich selbst, sondern gehoren blos zu Erscheinungen derselben; bis dahin bin ich mit jenen Idealisten auf einem Bekenntnisse. Allein diese und unter ihnen vornehmlich Berkeley sahen den Raum fur eine blose empirische Vorstellung an, die eben so wie die Erscheinungen in ihm uns nur vermittelst der Erfahrung oder Wahrnehmung zusammt allen seinen Bestimmungen bekannt wurde; //IV375// ich dagegen zeige zuerst: das der Raum (und eben so die Zeit, auf welche Berkeley nicht Acht hatte) sammt allen seinen Bestimmungen a priori von uns erkannt werden konne, weil er sowohl als die Zeit uns vor aller Wahrnehmung oder Erfahrung als reine Form unserer Sinnlichkeit beiwohnt und alle Anschauung derselben, mithin auch alle Erscheinungen moglich macht. Hieraus folgt: das, da Wahrheit auf allgemeinen und nothwendigen Gesetzen als ihren Kriterien beruht, die Erfahrung bei Berkeley keine Kriterien der Wahrheit haben konne, weil den Erscheinungen derselben (von ihm) nichts a priori zum Grunde gelegt ward, woraus denn folgte, das sie nichts als lauter Schein sei, dagegen bei uns Raum und Zeit (in Verbindung mit den reinen Verstandesbegriffen) a priori aller moglichen Erfahrung ihr Gesetz vorschreiben, welches zugleich das sichere Kriterium abgiebt, in ihr Wahrheit von Schein zu unterscheiden.(ibid.)

 

●デカルトの観念論への批判

<観念論論駁>

 

「観念論(私は、実質的観念論materiale Idealisumus を考えている)とは、我々の外の空間における諸対象の現実存在を単に疑わしく、証明できないものとして説明するのか、あるは、間違った不可能なものとして説明する理論である。

前者は、デカルトの蓋然的観念論である。これは、「われアリ」という経験的主張を疑い得ないものとして説明する。第二は、バークリの独断的観念論である。これは、空間をそれ自体で不可能なものとみなし、それゆえに、空間における諸物を、単なる想像として説明する。」B274

 

「独断的観念論[バークリ]は、もし空間が、物自体に属する性質とみなされるのならば、不可避である。そのときには、空間は、空間を条件としている全てのものとともに、Unding不合理なもの、になるからである。この観念論の根拠は、超越論的感性論で、我々によって、除去されている。」B274

 

「蓋然的観念論[デカルト]は、直接的な経験によって我々の現実存在以外の現実存在を証明することが不可能であると述べるものである。これは、理性的であって、根本的哲学的思考方法にかなっている。求められている証明は、外なる事物について単に想像するのではなくて、経験を持つことを示すことである。このことは、我々の内的経験、つまりデカルにとって疑いえない経験が、外的経験を前提してのみ可能である、ということを証明できるときにのみ、可能である。」B275

 

            教説

「私自身の現実存在の単なる、しかし経験的に規定された意識は、私の外の空間における諸対象の現実存在を証明する」

                        証明

@私は、私の現実存在を、時間の中で規定されたものとして意識する。

Aすべての時間規定は、持続的なものを知覚の中に前提する。

Bこの持続的なものは、私の中にはありえない。なぜなら、時間の中の私の現実存在は、この持続的なものによってはじめて規定されうるからである.

Cそれゆえに、この持続的なものの知覚は、私の外の物によってのみ可能であり、私の外にある物の単なる表象によってではない。    (Bから帰結)

Dしたがって、時間のなかの私の現実存在の規定は、私が私の外に知覚する現実的な物の実存によってのみ可能である.              (AとCから帰結)

Eところで、時間の中の意識は、この時間規定の可能性の意識と必然的に結合している。

Fゆえに、時間の中の意識は、時間規定の条件としての私の外の物の実存と必然的に結合している。すなわち、私自身の現実存在の意識は、同時に、私の外の他の物の現実存在の直接的意識である。                                

(DとEから帰結)

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(5)Kantによる「観念論」の定義

「観念論は、つぎのような主張である。思考する存在者以外のものは存在しない。つまり我々が直観において知覚するとおもっているその他の事物は、思考する存在者の中で表象としてのみあり、これらの表象には、実際には、これらの存在の外部に対応するものは何もない。」(KantProlegomena§13Anm.

 

(6)カント哲学と心の哲学

カントは、物自体が心を触発するという。これは、脳状態に心がsuperveneするということではない。なぜなら、その議論は、対象から脳状態への因果関係をみとめており、それが物自体の世界での因果関係であることを認めていることになるからである。カントは、もちろん、物自体の世界での因果関係を認めない。

もし物自体を認めるとすると、それと心の間の関係は、因果関係になるだろう。もし外的対象を認めるとすると、現代の議論では、それは、感覚や知覚の原因として以外には考えられない。しかし、カントは、そのような因果関係を認めないはずである。

 

 

3、観念論の問題と物理主義の問題は、同一問題の反復である。

@「私が思う」から物自体の存在へと出てゆくことが出来ない。

A脳の物理的な状態の解明から、心的な状態の説明を行なうことはできない。

 

心と物の間のギャップを埋められない。

 

 

■参考図書

イギリス経験論については、松永澄夫責任編集『哲学の歴史 6』平凡社をお勧めします。

観念論と関わる認識論の問題については、エイヤー『哲学の中心問題』竹尾冶一郎訳、法政大学出版局をお勧めします。哲学の初学者には難しいかもしれませんが、気になる章があれば、そこだけでも読んでみてください。